夜の静けさの中で、竹の筒に小さな灯りをともす。
ふわりと漏れる光が、壁に揺れる影をつくる。
その瞬間、ただの暗闇だった空間に「祈り」のような気配が生まれる。
竹灯り。
それは日本人が、長い時間をかけて育ててきた“光の文化”のひとつです。
電気のない時代、光は命の象徴であり、希望そのものでした。
そして竹は、その光を宿すためのもっとも身近で、清らかな素材でした。
光を「ともす」という祈り
私たちは、スイッチひとつで光を得られる時代に生きています。
けれど、ほんの百年ほど前までは、灯りをともすこと自体が「祈り」でした。
火をつけるたびに、家族の無事を願い、
消えゆく炎を見送りながら、明日の安寧を想っていたのです。
竹は、火と相性がよい素材です。
乾けばすぐに燃え、割れば音を立ててはぜる。
人々はその素直な性質を見抜いて、
暮らしや神事の中で火を扱うための道具として使ってきました。
たとえば、古い神事では竹を割って中に火を灯し、
**「清めの光」**として祭壇に供えました。
竹の内側を通る空気が炎をまっすぐ導くため、
その火は小さく揺れながらも消えにくく、どこか神聖な印象を与えたといいます。
竹は、ただの燃料ではありません。
光を運び、祈りを包む器でした。
人の願いをその身に宿し、夜の中で静かに燃える存在だったのです。
竹という“間”の器
竹を見つめていると、光と影のバランスが心地よいことに気づきます。
まっすぐ伸びた節のあいだから漏れる光は、
まるで呼吸するように優しくゆらぐ。
西洋の光が「闇を追い払う」ためのものだとしたら、
日本の光は「闇と寄り添う」ためのもの。
照らすよりも、包む。
完全な明るさよりも、**あいまいな“間”**の中に美しさを見出す。
竹灯りのやわらかさは、その“間”の美の延長線上にあります。
竹に小さな穴を開けて光を通すと、壁に模様が浮かび上がる。
それは光と影が手を取り合うような瞬間で、
日本人が古くから大切にしてきた「調和」の感覚そのものです。
灯籠と信仰のはじまり
竹の灯籠が広まった背景には、
仏教と神道が交わる日本独自の信仰の歴史があります。
仏教では、光は「智慧(ちえ)」の象徴。
闇を照らすことは、迷いから抜け出すことを意味しました。
寺院では、仏前に灯りを供える「灯明供養」という儀式が行われ、
僧たちは竹筒や木の器に油を注ぎ、炎を絶やさぬよう祈り続けました。
竹の中で燃える火は、風に強く、安定して灯り続けます。
それはまるで信仰の心そのものでした。
ゆらぎながらも消えず、形を変えながら生き続ける光。
竹はその静かな炎を守る“祈りの器”として、長く人々に寄り添ってきたのです。
再生の象徴としての竹
竹が古くから神聖視されてきた理由のひとつに、
その生命力があります。
春になると、土の下から新しい芽を伸ばし、
切ってもすぐに次の命が生まれる。
その姿は、再生・繁栄・清浄の象徴でした。
正月の門松に竹が使われるのも、
神を迎える“道”を整える意味があるからです。
竹の中を風が通り抜けるように、
人と神、光と闇、生と死――そのすべてを行き来させる通路。
竹灯籠は、まさにその「通路の形」を示しているのかもしれません。
人々は竹を通して、目に見えない世界と静かに交わってきたのです。
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現代に息づく竹あかり
いま、日本各地で竹あかりのイベントが開かれています。
大分の「竹あかり千年祭」、熊本の「みずあかり」、
京都の「花灯路」――いずれも、夜の街をやわらかく包み込む光の祭りです。
これらの取り組みには、もう一つの意味があります。
それは、放置竹林の再生です。
かつては生活の道具として欠かせなかった竹も、
プラスチックや金属の普及で使われる機会が減り、山に放置されていました。
けれど今、竹は再び「灯り」として命を吹き返しています。
人の手で削られ、穴を開け、光を宿す。
その作業のひとつひとつが、まるで祈りのように丁寧で、
竹自身もそれに応えるように温かな光を放ちます。
竹の燃え尽きる瞬間、炎はふっと大きく揺らめき、静かに消える。
その姿に、人は“終わり”ではなく“循環”を見出すのです。
豆知識:灯籠という言葉の由来
「灯籠(とうろう)」という言葉の“籠”は、
“囲う・守る”という意味を持ちます。
つまり灯籠とは、光を守る器のこと。
竹灯籠の“守る”という形には、
「光を消さない」「祈りをつなぐ」という願いが込められています。
古い記録によると、戦国時代の夜の陣中でも竹の灯籠が使われていました。
敵味方が見分けられるように、
それぞれの陣に火が灯されていたそうです。
火の灯る場所こそが、自分の“帰る場所”だったのかもしれません。
光はただの明かりではなく、「生きている印」だったのです。
光と闇のあいだで
私たちは、明るすぎる世界に生きています。
コンビニの光、スマホの光、街のネオン。
夜になっても、闇を感じることが少なくなりました。
でも、竹灯りの前に立つと、
ふっと心の中のざわめきが鎮まることがあります。
それはきっと、私たちの中に今も“闇とともに生きる感覚”が残っているから。
竹灯りの光は、眩しすぎず、ただそこにある。
自分の呼吸と同じリズムで揺れながら、
心の中の余白を取り戻してくれる。
誰かが灯した光を、誰かが見つめる。
その静かなつながりの中に、
日本人の“祈る力”が今も生きている気がします。
終わりに ― 竹が教えてくれること
竹は、燃えても、倒れても、また立ち上がります。
それは光も同じ。
消えても、また誰かが灯せばいい。
竹灯りを見つめていると、
人の営みってそういうものだな、と思うのです。
完全な明るさを求めず、闇を抱えたままでも進んでいく。
そのたびに、誰かがそっと光をつないでいく。
「風竹通信」は、そんな小さな光を集める場所でありたい。
竹を通して見えてくる人と自然の記憶を、
これからも静かに書き留めていきたいと思います。
🍃 竹がもたらす“祈りの循環”を歴史からたどる。

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